2013年3月6日水曜日

憲法改正要件・手続の一覧

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日本国憲法96条(改正要件・手続の緩和)


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海外の憲法改正ってそうなってたんだ!来たる国民投票に備えて最低限の知識を

【憲法改正要件の性質】

憲法改正要件が緩和されれば、憲法改正回数が増えるとは必ずしもいえない。が、憲法改正要件が制度として緩和されたほうが、憲法が改正しやすくなることには疑いようがなかろう。一般的には、憲法改正手要件は、次のように説明される。

日本国憲法は硬性憲法(通常の法律の改正手続きよりも厳格な手続きを必要とする)であるが、これは安定性と可変性という相互に矛盾する要請に応えるために考案された技術である。憲法自身に定められた憲法保障制度(憲法の崩壊を招く政治の動きを事前に防止し、または事後に是正するための装置)でもある。改正要件を厳しくし過ぎると、可変性がなくなり、憲法が違憲的に運用されるおそれが大きくなるし、あまり改正を簡単すると、憲法を保障する機能が失われてしまう。そして、日本国憲法の改正要件(両院の総議員の2/3以上+国民投票で過半数)は、他国に比べて硬性の度合いが高い(変えるハードルが条文上は難しい)。(芦部2007、357,375頁)

安定性や可変性といった問題も確かにあるとは思うが、それよりもずっと重要な視点がある。それは、「国民が望む憲法になっているか?」という点である。

国民が「安定性」を望むのであればそうなるべきだし、国民が「可変性」を望むのであればそうなるべきである。「国民が望む憲法」になっているのであれば、それは国民の意思が反映された後で、国民自身が判断すれば良いことであるから、時と場合によって変わる程度問題としかいいようがない。

そもそも、「国民が望む憲法」にすることができないのであれば、それは国家権力を制限する主体であるはずの国民が、国家権力または自らの手によって、自ら制限の客体となっていることにほかならないのではないか。これをどう理解すればよいのか。この点は、別のページで詳しく論じる。

また、憲法保障の観点からも、硬性憲法の制度が果たして本当に適切なのか、疑問が残る。それについても、別のページで述べる。




【諸外国との比較?】

諸外国と日本を比較して、各国は何度も憲法改正をしているのに、日本だけ一度もしたことがないというのはおかしい。日本が憲法改正を一度もしたことがないのは、憲法の改正手続きのハードルが諸外国と比べて厳しいからだ。だから、日本も改正手続きの要件を緩和して、憲法改正しやすくするべきだ、というような議論がある。諸外国の憲法改正回数は、以下の通りである。

1945 年の第二次世界大戦終結から 2010 年 7 月に至るまで、アメリカは 6 回、カナダは 1867 年憲法が 16 回、1982 年憲法が 2 回、フランスは 27 回(1958 年の新憲法制定を含む)、ドイツは 57 回、イタリアは 15 回、オーストラリアは 3 回、中国は 9 回(1975 年、1978 年及び 1982 年の新憲法制定を含む)、韓国は 9 回(1960年、1962 年、1972 年、1980 年及び 1987 年の新憲法制定を含む)の憲法改正をそれぞれ行った。(「諸外国における戦後の憲法改正【第 3 版】」国立国会図書館『調査と情報』687号(2010.8.3.)から引用)

当然ながら、憲法改正の数が多ければ多いほど良いというわけではなく、日本が、戦後、新憲法施行後、一度も憲法改正をしていないからといっても、元の憲法が素晴らしいために改正する必要がないのであれば、それはそれで望ましいことである。

むしろ、憲法改正が頻繁に起きる、という状況では、政治的には不安定になる場合もある。政治的に不安定だからこそ、憲法改正(あるいは新憲法の制定)が頻繁に起きることもある。諸外国の憲法改正の数が多いのも、戦争などの動乱に多く巻き込まれてしまったからで、不幸な結果からなのかもしれない。それは、日本が進んで模範とすべきものではなかろう。


また、その憲法の規定ぶりが、明確か抽象的か、というのでも違う。日本国憲法は、抽象的な表現をしているため、その分、下位の憲法附属法・法律を変えることで、制度変更が容易な憲法といえる。たとえば、地方自治に関する条文は、主に第8章に4条しかない。地方自治法を改正すれば、それで大体は済んでしまう。

日本が地方自治法で定めていることを、外国では憲法で定めている場合は、日本で地方自治法を改正するのと同じ感覚で憲法改正がされているわけであり、憲法改正の数・頻度で日本と状況が違うのは当然である。

また、議会が一院制か二院制か、というのでも難しさは違う。

こういった様々な状況を加味しなければ、単純に日本だけ改正したことがないのはおかしい、という話にはならない。


問題とすべきは、「理想とする憲法にどれくらい近づけたか」ということであろう。


この点について、私の結論を先取りすると、現在の日本国憲法には欠陥がいくつもあるから、そのために改正が必要である。96条の改正要件もその欠陥の一つである。

現在の憲法をめぐる状況は、「国民が理想とする憲法がありながらも、それに近づくことが出来ない」というものであろう。これは、もどかしい。




【海外の憲法改正要件の状況(辻村2011、22,236,237頁)】

世界の諸憲法では、通常の法改正よりも厳格な憲法改正手続を定めている国が圧倒的多数である。

例外は、成文憲法をもたないイギリスやニュージーランドなど、ごく一部の国である。歴史的には、フランス1830憲章やイタリア1848憲章が軟性憲法として存在した。

概ね以下の5つに分類することができる。

①特別の憲法会議招集+厳格な議決・批准要件
アメリカ、カナダ、インドなど。

②特別の憲法会議の議決or国民投票による承認
フランス共和国憲法、ロシア連邦憲法

③議会の特別の議決+国民投票の承認
日本。韓国、デンマーク、スペインも類似。スイス、オーストラリアでも形態により国民投票の強制がある。

④議会の特別の議決or国民投票の承認
トルコ、スウェーデン、オーストリアの一部改正。

⑤議会の特別の議決
ドイツ連邦共和国基本法(ボン基本法)、ベルギー、オランダ、フィンランド。

②、③、④は、国民投票が重要な役割を担っており、主権者の直接的意思決定が採用されている。①と⑤では、むしろ主権者の直接的意思決定が回避されている。


以下は私見であるが、特にドイツについては、戦前のナチスが国民投票や住民投票といった形で合法的に独裁・ファシズムに至った経験から、なるべく国民が直接的意思決定をしないように制度設計をする傾向がある。

とはいえ、ドイツに限らず、国民投票・住民投票を必要となるに至った政治状況は、間接民主主義の行き詰まり・国民の不満から来ていることも多いと考えられる。

ロシアのエリツィン大統領のクーデター(1993年の10月政変)は、議会(人民代表議員大会および常設の最高会議)との対立の先鋭化(渋谷2012、458,459頁参照)、すなわち「間接民主主義の行き詰まり」が影響していた。

日常的に、国民が直接意思表示をする機会が整っていたならば、過激な意思決定をするのではなく、より望ましい政治が実現される可能性は否定できない。

日本でも、住民投票は、住民自治を強め、市民の直接的な政治参加による「人民主権(ないし市民主権)」実現の方向に進む点で評価されるが、憲法上の根拠や理論的な位置づけが必ずしも明確でなく、プレビシットとして機能する危険、情報不足や有権者の分析能力欠如等による世論操作・誘導の危険、住民投票の投票資格(16歳以上の投票を認める条例の合憲性等)と対象事項(少数者の人権侵害の危険)、諮問型住民投票における法的拘束力の問題などが指摘されている(辻村2011、234頁参照)。

これら直接民主主義的制度の欠陥や危険性が除去されるのであれば(たとえば、十分な審議時間の確保、国民への情報提供、投票の対象を細分化する等の対策)、②、③、④のような国民投票制度を採用することは、決して望ましくないことではなかろう(私見)。




【国民投票・住民投票】

以下、西修『現代世界の憲法動向』成文堂、2011、初版、59-63頁参照。

プレビシットは、法案それ自体ではなく、独裁的権力者がその権力を強化するために利用する(信任投票など)もので、民主主義になじまないものである。

近年、国民投票制度を採択する傾向が世界で多く見られるようになってきている(58の民主主義国家のうち、1975-2000年の間に国民投票をした実績があるのは、39カ国である)。90年代の諸国憲法をみると、68.9%の国家の憲法に国民投票制度が取り入れられている。

これは、国民主権の直接的表現、政党政治の限界(政党が国民の意思を十分に汲み上げることができない)、代表制民主主義の補完制度としての評価、グローバル化(ヨーロッパ連合への加盟など)、自己決定権の表明(妊娠中絶など)など社会の多様化と無関係ではない、とされる。代表制民主主義の有用な補完物、国家最高権力機関相互の衝突を解決する、アマチュアの持ち味を活用する等の意義が考えられている。

国民投票には、素人集団に判断を委ねる危険性、投票率低下による民意の信頼性に対する疑問、選択肢の単純化などの問題がある。


以下、小林節『「憲法」改正と改悪』時事通信社、2011、初版、164-167頁参照。

住民の利害が先鋭に割れてしまう問題については、議会も首長も立場を鮮明にすれば、次の選挙に影響が出ることを承知しているので、おじつけづいて何も決められなくなってしまう。この場合、住民投票なら、「住民が決めたのですから」という言い訳ができる。

しかし、それでは結局、議会がいらなくなってしまう。代議制民主主義の自己否定を引き起こすという矛盾が生じるので、住民投票をするのは、議会の機能不全が起きてしまうところをとらえて行えば良い。その手続はできるだけ簡潔に、冷静で十分な情報提供を行い、少し討論に時間をかけることを条件に行うべきである。住民投票の結果に法的拘束力をつければ、議会制の否定につながるため、その結果を「参考」にして議会に決めさせれば良い。冷静な熟議の民主主義という選択肢を捨てられるほど、われわれ大衆はまだ成長していない。

「選良」よりも「大衆」のほうが情報で扇動されやすい。大衆迎合的、マス・ヒステリー的になりがちで、必ずしも理性的で良質な決定をもたらすとは限らない。大衆は時に熟慮しない興奮した集団と化してしまう。熟慮を経た代議制には意義がある。

人はみな平等で、人間の価値に差はないというけれども、歴史的事実として、人の中にはやはり選ばれるべくして選ばれる人とそうでない人がいる。レディース・アンド・ジェントルメンを選出し、そこで十分な議論を行い、理性的に決定する。それを「みんなで支持した人が決めたのだから」と断った上で、実行するのが議会制度である。


以下、私見。

代議制民主主義と直接民主主義の長所をそれぞれ生かし、それぞれの短所を補う制度が望ましい。

直接民主主義的制度では、熟慮しない興奮した集団と化すことをどう防ぐかが大きな問題である。これについては、国民・住民に対して、その政策等がどのような効果と負担をもたらすのかを明確に知らせる必要があり、国の広報機能の強化(わかりやすさ、情報の到達率の向上等)にかかわる議論が必要となるだろう。

また、議会の情報発信の仕方を工夫(国民一人あたりのコスト・税金に換算して数値化するなど)することで、大衆をマス・ヒステリー的にするのを防止することができよう。




【参考となる海外の改正手続】

ロシアやカナダの憲法では、改正の対象内容によって、改正要件を変えている。日本の96条を考える上でも、参考になるものである。

ロシア連邦憲法(竹森2010、342頁)
第9章 憲法の全文改正および一部改正
第134条〔憲法改正の提案〕 ロシア連邦憲法の規定の全部改正および一部改正の提案は、ロシア連邦大統領、連邦会議、ロシア連邦政府、ロシア連邦の構成主体の立法(代表)機関、および連邦会議議員または国家会議議員の〔それぞれの〕5分の1以上の議員集団がこれを行うことができる。
第135条〔第1、2、9章の改正と憲法議会〕 ①ロシア連邦憲法第1章、第2章および第9章の規定は、連邦議会によってこれを改正することはできない。 ②ロシア連邦憲法第1章、第2章および第9章の規定の改正に関する提案が、連邦会議議員および国家会議議員の議員総数の5分の3によって支持された場合は、連邦の憲法法律にしたがって憲法議会を招集する。 ③憲法義解は、ロシア連邦憲法を改正しないことを確認し、または新しいロシア連邦憲法の草案を作成する。新しいロシア連邦憲法草案は、憲法議会がその議員総数の投票の3分の2によってこれを採択し、または国民投票に付す。国民投票が実施された場合、ロシア連邦連邦は、選挙人の過半数の参加を条件として、投票に参加した選挙人の過半数が賛成したときにこれを採択されたものとみなす。
第136条〔第3~8章の改正手続〕 ロシア連邦憲法の第3章ないし第8章の規定の改正は、連邦の憲法法律の採択の手続にしたがってこれを採択し、ロシア連邦の構成主体の3分の2以上の立法機関の同意を得た後にこれを施行する。
第137条〔第65条改正の特例〕 ①ロシア連邦の構成を定めるロシア連邦憲法第65条の規定の改正は、ロシア連邦への加入およびロシア連邦における新しい連邦構成主体の形成に関する連邦の憲法法律、ロシア連邦の構成主体の憲法・法的地位の変更に関する連邦の憲法法律に基いてこれを行う。 ②共和国、地方、州、連邦的意義をもつ都市、自治州、自治管区の名称が変更された場合は、ロシア連邦憲法第65条の該当する部分をロシア連邦の構成主体の新しい名称に改める。

なお、ロシア連邦憲法の1章は「憲法体制の原則」、2章は「人と市民の権利および自由」、9章は「憲法の全文改正および一部改正」である。

日本も、たとえば、人権規定部分に関しては、頻繁な改正の必要は考えにくいから、より厳格な改正要件を採用し、統治規定部分に関しては、大規模な変更をする可能性を考えて、それほど厳格な要件を要求しない、といった案も考えられる。







【参考文献】

渋谷謙次郎「ロシア」高橋和之編『新版 世界憲法集 第二版』岩波書店、2012
竹森正孝「ロシア連邦」初宿正典・辻村みよ子編『新解説世界憲法集 第2版』三省堂、2010
辻村みよ子『比較憲法 新板』岩波書店、2011

2013年3月4日月曜日

理論的に憲法改正手続きを変えられるのか


【憲法改正の限界】

憲法理論的に、憲法改正手続き規定は、改正することができないのではないか、という議論がある。憲法学の中では大きな論点ではあるが、ここでは96条の改正に関係する部分についてのみ簡単に触れる。

この議論は、法理論上の話で、現実には、国家権力等によって、いかなる憲法の規定でも変えようと思えば、憲法の手続きに則って変えられてしまう危険は常にある。

憲法改正に限界があるか、について無限界説と限界説に分かれている(芦部2007、378-381頁)。

無限界説:憲法改正手続によりさえすれば、いかなる内容の改正も法的に許されると説く。

この説を支持するのは、次のような理論である。
国民の主権は絶対である(制憲権は全能であり、改正権はその制憲権と同じである)と考える理論
憲法規範には上下の価値の序列を認めることはできないといと考える理論


限界説:憲法改正には、法的な限界が存在すると説く。

多様な論旨がある。


[二元論的限界論]
制憲権(憲法制定権力)が、常に改正権(改正権力)よりも上位にあるので、改正権によっては制憲権が選択した憲法の基本原理を変更できない、とするもの。憲法の法的同一性、継続性の破壊を否定する。憲法を変動させる作用を、二つの権力に二分して、「上下、前後の異質な権力」と捉える立場。

[根本規範論的限界論]
憲法の中に上位の憲法規範の存在を認める。

[自然法論的限界論]
改正の限界に自然法を措定して論じる。

通説は限界説であり、憲法96条の定める憲法改正国民投票制について、国民の制憲権の思想を端的に具体化したものであり、これを廃止することは国民主権の原理をゆるがす意味をもつので、改正は許されないと一般に考えられている。

したがって、自民党の改憲草案は、国会での発議要件の部分を「3分の2」から「過半数」に変えるもので、国民投票制を廃止する案ではないから、この点に関しては、限界説を採る憲法学の通説的には受け入れ難いものではない。

改正規定そのものを抹殺するような改正や、憲法の基本原理の否定に繫がるような改正は許されないが、それ以外の改正は法理論的に可能であると主張するものが多い。

改正権の根拠規定が改正手続の改正を一切禁止していると考えなければならない必然性はない(浦田2006、434頁)。

私は、このような議論は深く突き詰めても空想的になってしまうのであまり意味はないから、現実的に、国家権力側がどのような憲法改正も為し得るという前提に立った上で、国民が望ましいと思う憲法をどう実現するか、という議論をすべきであると思う。

無限界説か限界説か、限界説ならばどこまでが限界か、といった議論は難解であり、憲法観にかかわる問題である(※1)。また、限界論を採る場合、それにどのような効果があるのかについても議論がある。




【論理的矛盾?】







【参考文献】

芦部信喜著・高橋和之補訂『憲法 第四版』岩波書店、2007
上田勝美『立憲平和主義と人権』法律文化社、2005
浦田一郎「第96条」小林孝輔・芹沢斉編『基本法コンメンタール第五版/憲法』日本評論社、2006

※1 なお、私は、現時点では、現在に生きる人を基準として、制憲権と同レベルの改正権を認めつつ、その交易正当性を根本規範として自然権的に構成した限界説を採っている。だが、この説を採ったからといって、憲法外の「実力(主に武力)」が存在することにかわりないから、憲法保障のあり方は、これとは別に考える必要がある。

憲法を改正しないのは危ない!憲法を改正しないと、どんな弊害がある?

【憲法改正をしないことによる弊害】

では、憲法を改正しないことによる弊害は何なのか。現実に、今、何が問題となっているのか。

一言で言うと、「立憲主義の実効性の低下」である。

憲法は、国家権力側の解釈(有権解釈)によって、せっかく国家権力を制限するものであるにもかかわらず、時の政権等によって有名無実化されてしまう。これは、国家権力の暴走を招く危険なことであり、憲法を権力者側に軽視されないよう、実効性を日々高め、維持していく必要がある。

憲法9条は、その最たる例で、素直に条文を読んだだけでは理解することが難しい法的解釈によって現実に運用している。このような解釈がまかり通ると、歯止めとして効かなくなり、より国家権力側にとって都合のいい解釈をされるのがエスカレートしかねない。

同じ条文でも、主権者国民の解釈・認識と、国家権力側の解釈・認識が異なってしまうのは問題であり、どちらに合わせるべきかといえば、国民の認識に合わせて解釈され、運用されなければならないはずである。

憲法が改正されずに無謀な解釈の中で現実の法の運用がなされることは、国民の憲法に対する信頼とそれに基づく権威を低下させる。国民が、国家権力(主に政府や裁判所)の憲法解釈を支持しているのか、そうでないのかが曖昧なまま

ということは、国家権力側の解釈を国民が是正しにくいということであり、する手段()をすることができず、エスカレートさせてしまう危険を増大させることになる。

憲法制定当時には想定しなかったような有権解釈が後の時代に出てきた場合に、その解釈は国民の解釈と違っているということを国民の意思・解釈として明確化し、国家権力に横暴な解釈をさせないために、憲法改正は必要である。


また、立憲主義の実効性の低下を防止するという観点だけでなく、より積極的な意味で、国民が望ましいと思う憲法を実現しようという場合にも、少数者である国家権力側が自らの強大な力を盾に、国民ではなく自分たちだけに都合の良い政治をすることを防ぐためにも、憲法改正は必要である。

たとえば、選挙制度改革で、政治家が意見をまとめることは難しい。「一票の較差」の問題では、最高裁度々違憲あるいは違憲状態判決を受けても、それぞれがそれぞれの利害をもっているから、国民は蚊帳の外で、時間をかけて議論しても国民が望む結論が出ない。ほかにも、新規参入が難しいような現職議員に有利な選挙制度を作ろうとするかもしれない。

もし、国民が望む憲法改正ができて、選挙制度に関するルールが望ましい形で憲法で定まったなら、このような問題に日常的に悩まされることはなくなるだろう。国民のほうから積極的に、○○という選挙制度が望ましいといわれれば、民主的な政府は、あえてそれに逆らって制度を運用する必要はない。

問題は、どのようにして国民が望む憲法改正をして、それに国家権力を従わせるかという点にある。現在は、これが非常に難しい。先の例でいえば、選挙制度についての憲法改正を発議するのは選挙でもろに利害関係のある政治家であるし、国政選挙の結果にかかわらず国会での議論の中である意味国民とは無関係に制度は決まるし、良い憲法規定だけできても国家権力側がそれに従わない運用をしてイタチごっこになるかもしれない。

これについて、私は解決案を提示し、論文で詳しく書いている。なお、その案を実現するためには、96条の改正だけではなく、別の規定を新設することが必要である。これについては、別のページで書きたい。




【明治憲法の欠陥】

明治憲法(大日本帝国憲法)は、一度も改正されたことがない。正確には、明治憲法は、敗戦により外部の圧力を受け、その最初の改正で日本国憲法になった。

しかし、それは明治憲法が理想的な憲法だったから改正がされなかったというわけではない。

特に、明治憲法11条には重大な問題(軍の統帥に関する大権が、一般国務から分離・独立して、内閣・議会の関与が否定されていた)があり、改正を必要とする内在的な理由があった(参考:芦部2007、18-22頁)。
(大日本帝国憲法)
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス 
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第73条 将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ
2 此ノ場合ニ於テ両議院ハ各々其ノ総員三分ノニ以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス出席議員三分ノ二以上ノ多数ヲ得ルニ非サレハ改正ノ議決ヲ為スコトヲ得ス

(芦部2007、19頁)
統帥とは、本来は、作戦用兵の目的を達するために陸海軍を統括して活動させる国家作用を言う。この作用は性質上、専門的知識をもって機密裡に迅速に行われることが必要であるので、国務大臣の輔弼(大臣助言制)の外に置かれ、天皇が単独で行うべきものとされた。しかし実際には、政府からまったく独立の地位にあった軍令機関(陸軍参謀総長・海軍軍令部総長)が輔弼の任を務めた。軍国主義が支配的になるにともない、陸海軍大臣が武官であったため、憲法12条の定める軍の編成・装備などに関する事項(これは国務大臣の輔弼に属するもの)も、統帥事項だとされ、軍部の独裁を導く引き金となった。

11条と12条は抽象的な規定である。12条の規定が明確に統帥事項ではなく内閣・議会が関与すると書かれていれば、あるいは改正して統帥事項に含まれないと明確化することができれば、軍部の暴走を止められたかもしれない。

そもそも、大日本帝国憲法全体として、より民主的な憲法に改正することができていれば、元勲の権威が衰えた後も、憲法の欠陥を補えたかもしれない。

猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』中央公論新社、2010、100,101頁から引用 
東條新内閣と統帥部との最初の連絡会議が開かれたのは組閣から六日目の十月二十三日だった。議題は「国策遂行要領再検討に関する件」である。 /「統帥部」とはいわゆる「大本営」と理解していい。大本営陸軍部は参謀本部、海軍部は軍令部と称し、それぞれ参謀総長、軍令部総長をトップにもつ。俗にいう「軍部」とは、この統帥部と政府側の陸・海軍省をあわせたものを指す。戦後の教科書ではこの点の説明が少ないので混乱している者が意外と多い。/「大日本帝国憲法」では統帥権は天皇の大権に属する。“神聖にして侵すべからず”だから政府は関与できない。しかし事実上その大権を行使したのは天皇自身ではなく統帥部であった。統帥部は政府と別個に(勝手にといってもよい)作戦を発動できた。いわゆる軍部の独走とは旧憲法の“欠陥”により生じたものだ。/明治藩閥政権時代にはこの“欠陥”が露呈しなかった。山県有朋に代表される元勲らの権威が、制度的欠陥を人為的にカバーしていたからである。/東條内閣のスタートを「朝日新聞」は「統帥、国務、高度に融合」と報じた。軍人宰相なら、「統帥(大本営)」と「国務(政府)」の双方にニラミがきく、とみたのだった。しかし、東條はただの官僚にすぎず、元勲山県有朋ではなかった。時代がちがうのである。/連絡会議で政府側(陸相、海相も政府側ということになる)は統帥部側に全力で抵抗したが制度のカベは越えられなかった。

「不磨の大典」 として、憲法を変えないとする風潮は、このような制度的欠陥を放置し、ゆくゆくは悲惨な事態を招くことになる。憲法のアップグレードは不断に検討されなければならない。


軍国主義の台頭のなかで、明治憲法が定めていた「統帥権の独立」は濫用され、軍部の統制がきかなくなり、「臣民の義務」の強調によって、国民が戦争へと総動員されてしまった(高橋和之「日本」高橋和之編『新版 世界憲法集 第二版』岩波書店、2012、578頁参照〕。

中曽根康弘『政治と人生-中曽根康弘回顧録-』講談社、1992、332,333頁から引用 
どの憲法でも完全無欠のものはない。時代の流れとともに矛盾が露呈し、欠陥が明らかになってくる。明治憲法では、いわゆる統帥権の独立なる重大な弱点が大正時代から顕著になった。軍の統帥部と内閣の対立は、伊藤博文や松方正義ら元老が存在していたときには、その人間的迫力と見識とで政治と軍事が統一されていた。しかし、これらの元老が消え去ると、この人間的統合力は欠落し、軍部は統帥権の独立の名の下に、軍事を天皇に直属させ、内閣と対立し、国政を分裂させた。これが、大東亜戦争を引き起こす大きな原因となったのである。もし、大正初期に明治憲法を改正して、軍事も内閣に従属することを明確にしておけば、悲劇は防げたであろう。/この憲法の重大欠陥を見て見ぬふりをしたところに、戦前の日本の破綻があった。今の日本国憲法も、ようやく矛盾や欠陥が露呈してきて、見て見ぬふりをする限界が近づきつつある。現憲法の再検討は、国民的課題になってきているのである。

明治憲法の失敗を、教訓に しなければならない。同書では、「不安定な政権が派閥の波間に漂流して激しい政争の中に明け暮れる」ことや「政党政治に随伴する腐敗を断ち、政界を浄化する」こと、「大臣や各省が議会対策に明け暮れて、その隙に属僚政治が横行する弊」、「政党の行政官庁への過剰な介入」といった問題にも触れられている(373頁)。

政党政治の欠点を補うためには、一つだけの決定機構に依存するのではなく、それとは別系統の複数の決定機構を合わせて用いる必要がある、というのが私の持論である。

一つの議会では、議員自らの利害関係上、民主政治の自浄作用が働かない場面が必ず存在する。自浄作用が働かない場面についても、同じ一つの議会に任せておくのは、国民の側にとって非常に危険である。


憲法改正の発議は、議員の利害関係のために民主政治の自浄作用が国民の利益になるように働かないので、まさにこの「別系統の決定機構」を用いるべき場面である。

すなわち、「(96条改正で憲法改正要件が緩和されれば)政権が代わるたびに憲法を変えることになる。日本のようにまだまだ民主主義の意識が希薄で、定着していない国家では、ますます混乱するのではないか」(小沢一郎の講演での発言、2013年3月5日19時01分  読売新聞「96条改正なら、政権ごとに憲法変わる…小沢氏」http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20130305-OYT1T01147.htm?from=ylist)という懸念や「時の政権に都合の良い憲法改正の発議がされやすくなる」といった懸念は、もちろん国民投票を挟んでいるのである程度回避できると思われうが、この「別系統の決定機構」によってより有効に解決できる。

たとえ国民投票があるとしても、投票のコストは大きいのだから、そこで諮られる案がなるべく国民にとって望ましいものであることに越したことはない。憲法改正の発議をする主体は、通常の議会とは別系統にする、というのが望ましいのではなかろうか(この制度を導入するためにも、もちろんそのための憲法改正が必要である)。そうすることで、国民にとっては望ましいが時の政権にとっては都合の悪い内容の憲法改正発議が積極的にできるようになり、立憲主義が強化される。

今の自民党憲法改正草案を見ると、立憲主義を強化するどころか、国民への強制や義務を強化し、国家権力に対する縛りはむしろ弱めるという、立憲主義とは真逆の方向に向かうきらいがある。現実にそうした憲法にしないためには、96条に国民投票の手続があるだけではいつまでたっても政権に都合の悪い発議はなされず憲法の欠陥を修復できないという点で不十分である。国民にとって望ましい改憲発議が適宜される決定機構にしなければならない。

これについて詳しくは別に述べるので、そちらを参照されたい。現在の小選挙区比例代表並立制では、民意が正確に反映されない、という問題もあるが、「別系統の決定機構」のあり方次第では、この問題をも解消することができる。




【憲法と現実】

ここでは深く立ち入らないが、明治憲法が改正されなかったために、致命的な問題が先送りにされてきた現象は、現在の日本国憲法においても同じように生じている。その例が、9条である。
…9条をめぐるわが国の現状はすでに破綻しているとしか言いようがない。/まず、「戦争」を放棄して「戦力」の不保持を誓っている9条の下で、自衛「戦争」を予定している自衛隊という名の「戦力」を保持している現実について、防衛省等の官僚は別にして、明確に説明できる者はいない。(小林節「破綻している憲法9条と現実」大阪日日新聞、2013/03/05) 
いうまでもなく実態は憲法規定から大きくかけ離れており、2009年度防衛費の額では、世界第6位(アメリカ、中国、ロシア、イギリス、フランス、日本の順)にあり、れっきしとした軍隊としての自衛隊が、日米安全保障条約のもとで海外派遣されている実態がある(辻村2011、263頁参照)。

憲法が現実の必要に追いついていないために、憲法と現実が大きく乖離してしまう。本来は憲法改正によって是正すべきにもかかわらず。現実の必要に合わせて、相当に無理な法解釈をして、憲法の規定を無意味にしかねないのは、9条に限らず立憲主義の観点から危険であり、良くない兆候である。

いくら憲法に立派な条文があろうと、国家権力に横暴な解釈と運用をされては、国民はなすすべがない。憲法の規定が現実にどう運用されるかはわからない。だから、本当に立派な憲法とは、国家権力がそれを横暴に解釈し運用することができない憲法である。

現実に自衛隊はあるのだから、それを横暴に運用することがないように、歯止めとなる憲法改正(運用のルールをきっちりと定めるなど)をしていくこと(改悪ではなく立憲主義の強化となる憲法政策)を考えるべきではなかろうか。


憲法政策上重要なのは、条文を立派にするだけではなく、それが現実にもしっかりと機能するように制度設計し、運用することである。


国家権力に対して、ルールを守らせる仕組みが十分に整えられなければならない。これは、違憲審査制さえあれば十分、という話ではない。

憲法典の運用によってつくられる実例が、法源としての性格を与えられるようになると、政治部門への憲法によるコントロールを弱めることになる(石村2008、330頁、同旨)。


ほかにも、「私学助成(89条)」の問題は、合憲・違憲説で分かれており、目的的解釈を用いる必要がある。

複雑に無理な法解釈をされる余地を減らすること。そのような解釈がされないよう、民意がどう解釈しているのかを明らかにすることが求められる。

「憲法改正の限界」について、国家権力側が憲法を自分の都合の良いようにいかようにも解釈する可能性がある、という前提のもとに、どう国民が望む憲法秩序を実現するか、という議論をすべきであると思う。




【憲法の誤り(以下、網中執筆、網中2013、21,22頁参照)】

日本国憲法は、昭和の戦争に日本が敗れた翌年の1946年、連合国最高司令官マッカーサーの命令下、草案は9日間という驚異的な早業で米軍によってつくられ、約半年の帝国議会の審議と修正を経て公布された。

拙速の副産物として、一国の最高法規に本来あってはならない誤記、翻訳ミス、用語の誤り、現実遊離の条文などの欠陥が残されている。

例えば、誤記の例では、7条の「国会議員の総選挙」(ほかの憲法の箇所では、衆議院議員と参議院議員と使い分けている。)がある。

翻訳ミスの例では、15条の「公務員を選定」は、「公選職の公務員(議員等)を選定」である。

現実からの乖離(遊離)の事例では、14条の「栄典はいかなる特権も伴わない」、33条の「司法官憲が発する(逮捕)令状」、57条の「会議(本会議)は、公開」、79条の「公金は、公の支配に属しない教育の事業に支出しない」など極めて多くの条項で見られる。
用語の誤りの例では、人権保障の条文の主語は「すべての国民」か「何人も」か、主語がないかの3つのいずれかであるが、その使い分けの区別が厳密になされておらず、22条の国籍離脱権の主語は、明らかに「何人も」を使用し、日本国憲法が外国人の国籍離脱権を認めるのは外国主権の侵犯となるであろう。

憲法改正のハードルが高いために、憲法解釈の変更や柔軟な対応によって対処してしまう(問題の先送り)のは、平和状態では殊更その危険性が意識されなくても、非常事態になると特にその欠陥が露呈する。







【参考文献】

本文中に示したもののほかに、

芦部信喜著・高橋和之補訂『憲法 第四版』岩波書店、2007
網中政機編著『憲法要論』嵯峨野書院、2013
石村修「憲法変遷の意義と性格」『憲法の争点』有斐閣、2008
辻村みよ子『比較憲法 新板』岩波書店、2011



2013年3月3日日曜日

ついに日本の憲法が変わるの?憲法96条(改正要件)緩和の論点まとめ

日本国憲法96条 憲法改正要件・憲法改正手続きの緩和に関する論点まとめ


【現状】

2013年3月現在、自民党、公明党、日本維新の会、みんなの党、民主党の一部などの間で、日本国憲法96条の憲法改正手続き条項を改正(要件の緩和)しようという動きが広がっている。

この「憲法改正の手続き」は、憲法とは何か、どのような憲法が理想的なのか、を考える上で、非常に象徴的だし、面白いものである。

以下が、日本国憲法の改正手続条項である。(「憲法改正手続き」というと、「日本国憲法の改正手続に関する法律」(国民投票法)に関する議論も含んでしまうので、なるべく「憲法改正要件」という用語にここでは統一したい。)

第9章 改 正
第96条 この憲法の改正は、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。


この条文を、具体的には以下のように改正しようとしている。

第9章 改 正
第96条 この憲法の改正は、各議院の総議員の過半数の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

この争点は、2013年夏の参院選で有権者に問われることになるが、今後の憲政を大きく左右する重要な問題である。

2012年末の衆院選で、衆議院は、自民公明だけで2/3を超え、憲法改正の発議が現実味を帯びている。これに加えて、憲法改正に積極的な維新の会・みんなの党も議席を伸ばした。

2013年3月時点での参議院の議席は、自民公明を合わせても過半数を超えない状況である。しかし、2013年夏の参院選で、自民公明が議席を伸ばし、さらに維新の会、みんなの党が議席を伸ばせば、日本国憲法が施行されてから初めて憲法改正の発議が現実味を帯びる。



【問題提起】

この動きには、賛否両論がある。

賛成側の代表的な主張は、以下のようなもの(日本国憲法改正草案 Q&A PDFファイル - 自由民主党から引用)である。

現行憲法は、両院で 3 分の 2 以上の賛成を得て国民に提案され、国民投票で過半数の賛成を得てはじめて憲法改正が実現することとなっており、世界的に見ても、改正しにくい憲法となっています。
憲法改正は、国民投票に付して主権者である国民の意思を直接問うわけですから、国民に提案される前の国会での手続を余りに厳格にするのは、国民が憲法について意思を表明する機会が狭められることになり、かえって主権者である国民の意思を反映しないことになってしまうと考えました。

つまり、国民の意思を憲法に反映しやすくするために、3分の2ではなく過半数にすべき、ということである。平たく言えば、政治家だけでどうこう議論しているのではなく、民主主義の世の中なのだから、国民に積極的に信を問えばよいではないか、という話である。


一方、反対側の代表的な主張は、96条の改正の真意は、9条の改正にある。9条を改正するのが政治状況的に難しいので、まずはその前段階として改正要件の方から緩和しようということだから、賛成できない(主に護憲派の人たち)といったものである。

ほかにも、「過半数では通常の法律案の議決と同じであり、それでは、時の政権に都合のよい憲法改正案が国民に提案されることになって、かえって憲法が不安定になる」(同引用)から、過半数は行き過ぎ、という主張もある。



【各論点の分析】

憲法改正条項に関する論点は複数にわたるので、ここでそれぞれの論点について論じたページヘのリンクをまとめる。

・ 海外との憲法改正要件の比較

・ 憲法改正をしないことによる弊害

・ 自分の手で自分を縛るとは

・ 憲法保障の観点から



【私見(結論)】

以上の各論点についてそれぞれページで論じたが、私の結論は、この96条の改正要件を「過半数」に改正することには、賛成である。その理由については、各論点のページを見てほしい。

しかし、この96条改正に賛成とはいえ、まだ日本国憲法は発展途上段階にある。

それは、9条に限った問題ではない。9条以外の憲法の欠陥がいくつもある。

本当に問題なのは、96条を改正した後に、どのような憲法改正(憲法政策)をしていくのか、ということである。

特に、96条改正の後、ほかの立憲主義(つまり、国家権力を統制すること)的態勢を十分に整えないままに、安易に自民党的な9条の改正に進むことは避けなければならない。

そのような立法論ならぬ立憲論について、このサイトを中心に考察していきたい。